AVISTALの理念

〈自然との合一〉と〈芸術営為〉を通じた現代的ルネサンスにより、
古代の人類が見出した人間の喜びを取り戻す


古代に遡るまでもなく、生まれて間もない子どもの喜びは、初めて目にするものに手を伸ばし、思うままにそれと戯れることです。古代日本の芸術の極北にある火焔型縄文土器の造形からは、制作者の遊び心と喜びが溢れ出ています。
 日本の失われた30年は「安価なものを求めたから起きた」のではなく「努力や工夫が至らなかったから起きた」のでもなく、「遊び心と喜びを忘れたから起きた」のだと考えます。遊び心と喜びの起源は自然とのつながりにあります。人間も本来自然の一部だからです。
 「現代的ルネサンス」は、人間が過去に実現していた豊かな営為の崇高さを復古することを指します。私たちには、現代的な豊かさを保ちながらも、今こそ先人の知恵を生かして人間としての「人間の喜び」を取り戻す必要があると考えます。

これまで人間が形作ってきた〈ものの見方〉や〈考え方〉、〈言葉・美・正義・真実・貨幣〉は、私たちの文化文明を今日ある高みにまで引き上げた一方で、現代世界において、堅牢な構築物として人間を支配しています。疑うことを許さないこれらの構築物は、私たちの意識が及ばないところで私たちの認識を拘束する閉塞空間となっています。この閉塞空間の中に充満した因果と論理は人間存在のあらゆる次元で機械化を強いて、生命としての柔軟な運動や生成の運命および感動の機会を縮減しています。

閉塞された空間の中では〈言葉〉が〈言葉〉であることを、〈美〉が〈美〉であることを、〈正義〉が〈正義〉であることを、〈真実〉が〈真実〉であることを、〈貨幣〉が〈貨幣〉であることを、それがそうであるという単純かつ幻想的な論理によって主張します。この閉塞の中では、いかなる反証も許されないほど論理は自己完結し、それ以外に根拠を持ちません。こうした中では、例えば、制作物が名作であるか否かは「名作である」という言葉によって担保されます。

個人も企業も、純粋無垢に自らの知覚を見出す前に既存の構築物の指示する認識を強制され、その範囲内で自らの理念も事業も行為も考える他ない状態にあります。そして、それを疑うことを許されないがゆえに、「定められた生」を生き、「定められた役割」を生きることを、諦念とともに無批判に受け入れているしかないのです。

重要なことは、人はみな、薄々と「浮遊した閉塞空間」を肌で感じ、そこからの逸脱を偽装する試みを欺瞞として嗅ぎつけているということです。それにもかかわらず、その感性をも抑圧する循環的論理は、異変を直覚する自らの感性さえ疑う自己疑心を強いて、最終の砦としての感覚しか頼れないところまで人を追い詰めています。

人間は、自らの手足と頭を頼りに「浮遊した閉塞空間」から脱し、未だ見方も考え方も発生していない自然の大地に戻ります(これを〈自然との合一〉と呼ぶことにします)。日本人の暮らしは古くから自然の中の調和であり、恵みを与える自然は生命の生成が起こる神秘の源たる自然は畏敬の対象であり、現代日本人のつい数世代前までそれが当たり前の価値観として染み付いてきました。したがって、天然資源を変形する行為は、日本人にとってはすべて「過渡的」です。過渡期を超えた先に「自然を変形させないように天然資源を活用する人間存在を実現する」のが現代の人間の(日本人の)事業であると言えるのではないでしょうか。

自然との合一は、人類がこれまで築き上げてきた文化や文明の放棄を意味しません。むしろそうした発明と発見の歴史に内蔵された先人の知恵と生き様を保存することによって、私たちはそれらを失ったと考えるときに、いつでも身の回りのものに戻り、かつての人間の知恵と生き様を蘇らせることができます。

とはいえ、一度大胆に既存の〈ものの見方〉〈考え方〉を抛棄し、自己完結的な論理を放擲して、代わりに自らの手足と頭を使って愚直に考えてみる、作ってみる、動かしてみることは重要です。

「自然の大地」に一度着地するということが大事であり、それなくして新たな離反はあり得ません。どこまでいけば着地になるか、飽くなき追究を続けることが大事になります。

閉塞空間において定められた退屈な生を強いられることを忌避するなら、対極にある真の喜びを追求していくしかなく、人間としての真の喜びは、自然が為すことを超えて自らの営みを為す中に「生成の神秘を発見する」ことにあると言えそうです。自ら生成の神秘に接する営みはすべて〈芸術〉になります。〈芸術〉は限られた才能ある者だけに与えられた特権ではなく、すべての人が各々の生の過程で持つ、純粋無垢の核心に迫ろうとする意思です。人間が為すあらゆる事は〈生活〉か〈芸術〉かいずれでしかありません。人間を生かす所業は〈生活〉のための営為であり、人間を気づかせる所業は〈芸術〉のための営為です。今日、〈生活〉と〈芸術〉はあまりに遠く隔絶されていますが、古くは縄文火焔型土器が証すとおり両者は相互に密接に絡み合っていたに違いなく、人間の始原に立ち還って〈生活〉と〈芸術〉を共に追うところに人間としての最大の喜びがあると考えられます。

ここでいう芸術とは、自然から抜きん出ようとする初めての心であると言えます。自然から離反し切ってしまった地点から人間の始原へ思い致すことは芸術ではなく、事業でもなく、ただの感傷であるはずです。始原へ回帰しようとするこころは、自然と合一する中で原始的離反に戻ろうとする心であるはずです。それはまだ自然と人間が未分離の状態から離反する事業への視線でもあります。

事業とは表層的には創業者が始め、その表現として形成されますが、深層的には人間社会の変遷の中で自然に生成される営為であり、その意味では本来的に芸術になります。しかし、自然の生成が盛んを超えて常態化し始めると生成の側面は弱まっていき、むしろ形式化した制作を強制する抑圧に近づいていきます。事業は人間と人間が相対する媒介であって、生成の力を失うと「賞味期限」が近づくことになります。

戦後80年を経た現代日本の企業が停滞する既存事業を傍らに新規事業を構想することには一理あります。収益の問題の前に、事業組織としての生命力の問題として生成の力が問われていることを意味します。

生成の力を蝕むのは〈閉塞〉であり、そこから脱して自然の大地に降り立ってまた新たにそこから離反しようとするところに、自ずから生成の力が宿るはずだというのが当社理念の核心にある信念です。

つまり、〈自然との合一〉とそこからの離反という〈芸術営為〉は不断の繰り返しによって初めて生成の力を維持し続けることになります。つくってはこわし、つくってはこわす永遠の中で、おのずから生まれ出てくるものを待つということ、そこに「事業」の本質がありそうに思えます。

私たちは「絶対・超越・崇高の〈理念〉を仰ぎ見て〈意思〉を発見し、
有効な〈方法〉を見定めて行動する」人間活動を大きく三つに分けて考えます

私たちは、個人主義的な価値観と伝統的な価値観を
両睨みして世界観を形成します