企業の永続的な成長を可能にする経営の原理とは?

【要旨】本稿は、事業の成立・拡大・展開が滞る「痛み」の本質を、人間活動を駆動する〈理念・意思・戦略・実行〉という意識の骨格構造から考える。多くの企業が直面する成長停滞は、無意識に〈実行〉を偏重し、価値創出の源泉である〈理念〉を希薄化させるという「意識の骨格構造の不調和」に起因する。この原理を掘り下げるため、日常的に顧みられる個別の経営論点でなく、より広義の人間活動としての芸術や運動や生活を参照して、企業経営への示唆を検討する。そこで見えてくる重要な視点は、原理としての〈理念〉の源泉性、〈理念〉から〈実行〉への連動性、さらに顧客の〈声〉を上流へ還流させ〈理念〉そのものを更新し続ける循環性である。循環性が機能して信念体系が自動更新されるようになると、自己強化的な成長循環が形成され、企業は持続的な進化への道を拓いていく。

企業経営の骨格構造と連動性・循環性

序章:企業経営に関わる問題

事業を推進する私たちにとって、何が「痛み」か。

私たちは皆、何らかの形で事業を前進させようとしています。想いを形にし、人を喜ばせて、僅かばかりの対価をいただくという営為を転がして行くことで、経営者自身も事業組織も前に進んでいきます。

活動があれば何らかの前進は起きるものですが、目の前に起きている前進と〈思うような前進〉との間に乖離があれば、それは、事業を推進する者にとって〈痛み〉として感じられるものです。〈思うような前進〉とは、順風満帆に事業が成立・拡大し、水平方向や垂直方向に事業が派生・展開するということが、次から次に進んでいくイメージでしょう。そのイメージが思い描かれるとき、人は頭の中で、いくつかの大きなマイルストーン(一里塚)を通過することを、ひとつの絵として見ているのではないでしょうか。しかし、道中にある一里塚を通過するのは一瞬間であり、実際は長い時間をかけて、その一里塚に向けて愚直に前進しているものです。〈痛み〉とは、そうしたマイルストーンへなかなか到達しないという現象に対する懸念・不安・焦燥・怒りです。そうした理想と現実の乖離を〈痛み〉として感じる、「〇〇しない」という現象には、おおよそ次の3種類があり得ます。

  1. 事業が成立しない(つまり、Product-Market Fit (PMF)しない:潜在客の痛みを解決するソリューションを提示するに至っていない)
  2. 事業が拡大しない(つまり、PMFするが、市場に広く浸透しない:ソリューションが解決できる問題を持つ潜在客を見つけられていない、または既存客を逸失している)
  3. 事業が派生・展開しない(つまり、既存客・潜在客の未解決の課題を見つけ、新しいソリューションを提示するに至っていない)

上場企業の多くは、上記の1「事業が成立しない」をクリアしています。その上で、主に取り組んでいる課題が、中規模の企業については2「事業が拡大しない」であり、大企業については3「事業が派生・展開しない」であることが多いのではないでしょうか(その限りではありません)。そして、一部の超優良企業のみが、自律的に2「事業の拡大」と3「事業の派生・展開」の克服を自動化して、永続的な成長・発展を続けています。

ここで、利益をどう考えるべきかという声が聞こえそうですが、利益は、企業にとっての〈道具〉であって〈目的〉ではないことに留意したいと思います。なぜなら、利益は生み出されたとしても、いずれ社外に出ていくべきものだからです。企業が大きいことをしたいと目論むとき、剰余利益が蓄積されたら〈道具〉として企業を助けてくれます。利益は、投資原資となり、配当・給与の原始になることで、事業の拡大や派生・展開を助けてくれます。しかし、大元を辿ると、事業そのものがどうなるのかに行きつきます。短期的には利益が成果指標として成り立ちますが、長期的には〈目的〉にならないとは、そういう意味です。そこで、ここでは、事業についての現象に集中することにします。

同じように、株式市場での投資家に対する問題、社員に対する問題、協力会社に関する問題は、上記3点が関係する顧客に関する問題に付随して現れる副次的な位置づけとして捉え、ここでは顧客を中心にして考えることに集中することにします。それは、すべての起点は顧客であり、顧客に関わる問題を考えることが企業経営の一丁目一番地であると考えるためです。

ここで一点だけ留意したいのは、1「事業が成立しない」を達成した企業が、全て2「事業が拡大しない」と3「事業が派生・展開しない」を問題視しなければいけないわけではない、ということです。拡大も派生・展開も、事業における一つの道ではあっても必然ではなく、経営者が意図して拡大も派生・展開も選ばない、という最適な判断もあり得るということに留意しておきたいと思います。

それでは、上記3種類のような「痛み」と感じられる現象が見られるとき、どういう原因があるでしょうか。その原因を考えるに際して、ここでは社内の機能に分解する代わりに、会社をひとつの分割できないかたまりとして捉えた時の、この会社が持つ特徴を考えます。いたずらに細かい落とし穴に入り込むことを避けるためです。社長が会社全体を体現するという立場に立って、社長自身がこれをできているかどうかを考えると分かりやすいでしょう。以下で、大きく個社的事由と社会的事由に分け、全7種類に分類してみます。企業や事業が直面するあらゆる閉塞の原因は、このいずれかに帰着できます。

個社的事由

事業者の内部で事業を展開させるアイデアが弱まったり、有効な手が打てなかったり能力を発揮できなかったりすると、前進の理想と現実の間に乖離が起きてしまいます。4つの事由が考えられます。

  1. アイデアが弱い

アイデアはある、目標もある、しかし、どこか弱い。過去からの流れを考えれば妥当と言えても、その達成を図る自分たちに「力」を与えてくれていない。アイデアに一般的な響きはしているが、「自分たちらしさ」は入っていない。だから借り物に思える。顧客に刺さるかどうかの前に、アイデアに尖りがない。

  1. 人が動けない

アイデアはある、目標もある、しかし、適度に分解されず、踏み越えがたいステップを無理に乗り越えようとしている感がある。また、先の見えない暗がりを、頼りになる灯火すらなく進ませられてもいる。アイデアは、実行不可能な「号令」に化していて、次第に皆が心の中で「それは実現できないこと」と諦めてしまっている。

  1. 的が外れたまま直らない

アイデアはある、目標もある、想いも高まっている、実行できるほど具体化されてもいる、しかし、狙いはズレている。ズレた狙いが軌道修正されることなく放置されている。頑なにそれを「正しい」と信じているのかもしれない。「正しい」と思うのは間違っているかもしれない、という〈外からくる声〉に心が閉ざされている。

  1. 人が協調できない

アイデアはある、目標もある、想いも高く、策は具体化されている、しかし、助け合って初めて成立するのにバラバラに実行されている。想いが通い合っていない、独りよがり。ひとつだけをとってみればよくできている、しかし、ふたつ合わせてみたら邪魔し合っている。

社会的事由

自社以外の社会的関係者(顧客、協力会社、金融機関、政府機関など)との間で、自社の前進を促すような協働関係をつくれないために、自社の前進の理想と現実の間に乖離が起きてしまいます。

  1. 環境に破壊される

外部環境に翻弄され、せっかく社内で積み上げたものが崩れてしまう。初めは再起を図ったが、繰り返されるちゃぶ台返しに、次第に再起のインセンティブをも破壊されてしまう。例として、自然災害、マクロ経済・金融、政策、社会的混乱など。

  1. 生産的な行動を促す仕組みを持っていない

自社にアイデアはある、目標もある、士気は高く能力は高い、しかし、能力を飛躍させる仕組みがない。外部が得意なことも自社でやり、自社の能力はいつまでも同じ作業に閉じ、より生産的なことやより広い世界に広げていけない。強力なパートナーは不在であり、顧客との関係は冷たいままに留まっている。

  1. 社外関係者と協調できない

自社にアイデアはある、目標もある、外部者を活用してもいる、しかし、社内外で同じ方向を向いていない。各自の目的・目標とアイデアに閉じ、各自のタスクに閉じていて、共通の未来を共有できていない。各社は最適な判断をするが、全体として縮小均衡に留まる。例えば、製品開発時の擦り合わせや、巨額投資時の融資など。

このように、2「事業が拡大しない」や3「事業が派生・展開しない」という現象があり、その原因が7種類ある中で、私たちは、つい、「即座に原因に取り掛かろう」としてしまいがちです。しかし、これらの潜在的な原因そのものが一つの結果であって、そうした結果が出て来ざるを得なかった背景に留意すべきです。例えば、「アイデアが弱い」可能性が懸念されるとき、アイデアを補強しにいけば良いかというと、もしそこでアイデアが補強ができたように思えても、「人が動けない」や「的が外れたまま直らない」という別の現象が露出する可能性があります。そうなると、イタチごっこが続き、いつまでも根治できずに時が流れてしまいます。そこで、懸念される原因の背景にある原理を把握しにいくことが望ましいように思えます。ここでの考え方は、問題が起きた時に表面的な問題を〈モグラ叩き〉のように解決し続けていく姿勢をとるより、問題の根本的な原理をつかみ、原理の上で外すべからざる原則を再確認して、根治を図る姿勢をとるほうがよいというものです。原理原則が存在するなら、まずそれを理解しに行こうと思うのがまっとうと思われますので、以下で、原理原則を追求していくことにします。

原理としての「企業経営の骨格」

企業経営に成功法則があるとすると、それは属人的な経営観であると私たちは考えてしまいがちです。偉大な経営感を持った人は成功し、それを持つに至らなかった者はそれなりの成功に甘んじる、という見方です。確かに、歴史上の偉大な経営者の歴史を眺めると、そうした側面は否めません。強烈な個性がぐいぐい組織を引っ張り、顧客を引っ張り、社会を引っ張ったことを私たちは知っているからです。ここでの試みは、そうした属人的な物語から、あえて個人に特殊な要素を取り外すことで見えてくる骨格を浮き彫りにしようとするものです。それは果たして可能なのか? それを可能にするために、企業経営から一歩外に出てみることが有用です。つまり、企業活動という、たかだかこの2百年間弱ほどに広がった事業を推進する活動を超えて、それ以外のあらゆる活動を一度眺めてみるということです。実は、そのように視野を広げてみると、そうした活動を通して見えてくることがあります。ここでは、その一端だけを垣間見てみます。

人間的活動から見える源流としての〈理念〉

あらゆる活動には、その始まりの衝動があります。絵を描くとき、運動するとき、料理をするとき、友人と語らうとき、そして事を為そうとするとき、その行動の端緒には衝動的な動機づけがあります。それは〈意思〉ですが、〈意思〉が絵画や運動や料理や語りや事業という形を取る前に、未だどんな形にもならない間にも人を動かす衝動が働いている瞬間があります。「とにかく何かしたい」という初動の衝動はどこから来るのか。一つの参考になるのは芸術です。芸術の場合は、食事ほどに生物的欲求(つまり、空腹を満たしたいというような原始的欲求)に動かされることがないですが、人間的最高潮に達した芸術を研究すると、その初動に〈理念〉があることが分かります。

例えば、縄文式火焔型土器を思い出してください。日本の歴史の教科書を開けばどの教科書にも載っていた、上部に向けて広がった鍋型の土器です。機能としては煮炊きをするために土からつくられた鍋ですが、上部の縁のあたりの装飾は機能を度外視して名前の通り炎の燃え盛るような様式が採用されています。この土器が縄文人によって〈はじめて〉つくられたときをご想像ください。私たちのように、〈出来上がったもの〉を見ずにあのような形式を生み出すには、つくられる前に〈何らかのイメージ〉が頭の中になければなりません。たしかに、試行錯誤する中で発展した結果、鍋としては過剰と言えるあそこまでの装飾に至った面はあるでしょうが、それにしても、そうした〈イメージ〉は試行錯誤の中でも制作者の頭の中で思い描かれ、発展していったわけです。そうした「目の前にあるとよいが、未だ無いもの」のイメージを〈理念〉と呼び、それを「目の前に現前させよう」とする〈意思〉と区別することにします。

同じことは運動においても言えます。どんなスポーツでも良いですが、ここではサッカーを取り上げてみます。TV中継を通して垣間見るプロ選手の華麗な身のこなしを見て、子供たちはサッカー選手になることを夢みます。例えば、かつてフランスの代表を務めたジネディーヌ・ジダン選手は、世界中の子供たちを魅了しました。ジダン選手の華麗なボールさばきのイメージは、子供たちが「自分もそれをやりたい、でも未だできない」と考える〈理念〉です。目の前に、自分の体験としてジダン選手のみのこなしを再現することはできないのですが、子供たちの頭の中にはそのプレイのイメージが繰り返し再現され、そのイメージを実際に体現しようとして子供たちは我が身を奮って幾度も試すのです。子供たちはよく、どの選手が好きかという話をします。どの選手になりたいか、という話もします。子供たちにとって、プロ選手は〈理念〉を提供しています。縄文式火焔型土器とは違って、この世に存在しない未知のものではなく、TVを通して現存するイメージを借りてきた〈理念〉です。その〈理念〉を心に抱いて子供が練習に励んで成長していったとき、ジダン選手とは違った形の自分なりの出来上がったボールさばきやシュートを我が物にするのです。

実は、日々の私たちの暮らしを支える料理についても同じです。毎日夜、新しい料理を発明することはないでしょうから、どこかで誰かが発明した旧知の料理を私たちは日々いただいているわけです。しかし、その料理を作るにしても、食すにしても、頭の中に描かれるのは、「過去に体験した素晴らしい感動」あるいは「期待を超えた体験」という〈理念〉です。食を愛さない人はいないと思いますが、そこでの愛はこうした〈理念〉と関係しています。人によっては、料理と食事を通じて「大なる自然と共鳴する」ことを〈理念〉と感じるかもしれませんし、あるいは、家族や友人と「一つの場を共有してくつろぐ」ことを〈理念〉と感じるかもしれません。〈理念〉には本質的に、人の数だけあらゆる様式があってよいものでしょうが、共通することは、単に空腹を満たすということに留まらず、こうした日常的活動の一端にも、人を行動に駆り立てる〈理念〉が関係しているということです。

〈理念〉から〈意思〉を経て〈実行〉へ至る「骨格」

ここで、芸術・運動・生活という人間的活動の側面を取り上げて、それぞれの活動が起きる前に、すでに頭の中にイメージ(つまり、〈理念〉)があることを見ました。それでは、〈理念〉はどう働いて「その後」につながっていくのでしょうか? もう少しズームインしてみてみます。

例えば、土器を制作する事を考えます。現代的な陶器製造業者ではないですから、ひとりの素人として、頭の中に「できあがりのイメージ」を〈理念〉として思い描きます。すると、その〈理念〉は〈理念〉のまま留まらず、「それを形にしたい」という〈意思〉になります。ひとたび〈意思〉が〈意思〉として認識されれば、そのまま捨て置かれず、いずれ〈実行〉に移されます。そして、〈実行〉した結果の土器が出来上がると、〈理念〉と突き合わされて、今度は〈理念〉のほうが頭の中で組み替えられていきます。「(出来上がりの土器を)このように変えたら、面白いのではないか」という発想が、〈理念〉を新しく変えていきます。そのように〈理念〉が未だないイメージを構想し、土器が形を得て〈理念〉に新しいインスピレーションを与えるという循環的な過程が回り始めると、土器の制作活動は永続的に展開することになります。

運動における展開もそれと似ています。頭の中にジダン選手のプレイの数々を焼き付けた子供たちは、そのプレイを自ら再現すべく試行錯誤します。同時に、ブラジルのロナウド選手の瞬発力に魅了された子供は、ある場面ではジダン選手を、別の場面ではロナウド選手をと、場面に応じて複合的に混ぜ合わせることで〈理念〉を独自に展開させます。そのような足し算あるいは掛け算を経て、子供たちの〈理念〉は独自の進化を遂げていくことになります。土器制作と同じく、運動においても、描かれた〈理念〉を即座に実地で試す〈意思〉が湧き上がり、友人たちとの間のゲームの中で〈実行〉されます。

ここで、土器制作との違いは〈実行〉面において「他者が介在」することです。自分の思い描く〈理念〉をただ表現するだけに留まらず、それが他者との関係の中において〈理念〉通りに働いているかという観点が入ってきます。すると、〈理念〉としてはジダン選手を再現したいという想いが、「他者との関係」の中で思い通りに再現されないという〈実行〉の結果につながることがあります。この時、あくまでジダン選手を再現するという〈理念〉にこだわるのは一つの〈意思〉に違いありません。同じく、ジダン選手もいいけれど、ここではロナウド選手の良さを発揮するという〈理念〉を重んじることで「仲間うちでダントツな存在感を示す」というのも、別の〈意思〉として大いにあり得ることです。

ここでは、〈実行〉の結果が、〈理念〉レベルで比重を調整して、〈意思〉を創造的に組み替える可能性が示唆されています。事実、この例の子供の場合には、「ダントツの存在感」ということが実は隠れた〈理念〉としてあることに留意が必要です。その意味では、〈理念〉は「何をしたいか」「何になりたいか」という単純な構造ではなく、もっと重層的であり〈意思〉というものも、ひとつふたつの道を選ぶだけではなくて、創造的に無限の可能性の中から作り出すというのに近いこともわかります。〈実行〉した結果、思うようにジダン選手を再現できなかったからといって、闇雲に異なる形で〈実行〉し直し続けることを選ぶ場合、もしかしたら仲間の間で実力が突き抜けてジダン選手を思い通りに再現するに至ることもあるかもしれませんが、そうならずに辛酸を嘗め続ける可能性もあります。そこでのポイントは、〈実行〉の結果をどこにフィードバックするかということです。上記の場合には、〈理念〉にまで立ち返って創造的に組み替えることで出口が見えました。その意味で、〈実行〉と〈理念〉の距離の遠さをどう克服するかということは重要な一つの観点と言えそうです。

「骨格」が持つ文脈によって欠かせない〈戦略〉

さらに、「他者が介在」する場合に、例えば「ジダン選手とロナウド選手のような華麗なプレイ」という〈理念〉から「ロナウド選手のような瞬発力でダントツの存在感を示しながら、随所でジダン選手のような華麗なボールさばきを見せたい」という〈意思〉を抱えて実践しようとするとき、「さて、それをどのように実行しようか」という〈戦略〉の観点が入り込むことがあります。土器制作のように自己完結する世界の場合には基本的に〈戦略〉は不要です。煩雑な作業を手際よくやる必要があるような場合に、〈戦略〉的に実行をデザインするくらいです。そうでなければ、愚直に〈意思〉に従って〈実行〉を重ねていけばいいからです。一方で、「他者が介在」する競争的環境や、「他者に対峙」する適応的状況においては、やたら滅多に試行錯誤する余裕はなく、効果的に〈意思〉を成果に結実させる工夫が必要となります。それが〈戦略〉です。もし〈意思〉がユニークであり、それゆえ「競争する他者」が介在せず、「対峙する他者」が柔軟にこちらを受け止めてくれるなら、〈戦略〉の必要性は低いです。逆に、〈意思〉が月並みであり、それゆえ「競争する他者」が多く介在し、「対峙する他者」がシビアにこちらを受け止めるようなら、うまくことを運ぶ〈戦略〉を上手に設計しなければ成果にはつながりません。

ここで大事なことは、〈戦略〉というものが、それ自身で単独に立っているわけではないということです。〈戦略〉は「あったらいいな」「けれど、無いなら、無いで頑張る」というオマケではなく、〈理念〉や〈意思〉を前提とし、競争や適応を前提として初めて「どれくらいないと困るか」が理詰めで、城の堀を埋めるごとくに計画されるべきもの、ということになります。言い換えると、〈戦略〉とは、いつも通らないといけないわけではないが、必要な時にはそこを通らなければ、到達したいところに辿り着くことはできない経路です。

〈戦略〉の本質を簡単に凝縮すると、1)競争相手との避けられる闘いを避け2)訴える相手に訴えを響かせる、の2点に帰着します。あらゆる〈戦略〉的狙いは最終的にこの2点に至るべきものであり、この2点を満たす限りにおいて成功と言えます。

「骨格」を骨格たらしめる不可欠な主体の存在

最後に、料理の例に戻って全体を総括して、このセクションを締めくくりたいと思います。

あなたは料理人です。これから旧知の知り合いの方々があなたのお宅を訪問します。あなたは、これまでの人生経験を通じて積み重ねてきた交歓と歓待のイメージを持っています(〈理念〉)。

室内照明の適度にアンビエントな光がベージュ地の壁のクロスを照らし、窓外の緑を透けて陽の光が部屋の中まで入り込んで暖かな空間を包んでいる。来客の座す卓を上からまばゆく照らす光は、卓上に控えめに据えられた季節の花草とともに、今宵の宴を彩る舞台をしつらえる。料理は地元の海で採れたばかりの活きのいい魚介類と地元の畑で採れたばかりの野菜からつくられ、一点ものの手づくりの陶器で賓客に供される。

そうした〈理念〉を現実にすることで、あなたは誠意を込めて料理でお客をもてなし、皆が幸福となるひとときを作りたいと思っています(〈意思〉)。過去に招いた方々はよく呑み、よく食し、よく歌い、よく話したので(〈実行〉)、今回は豊富な種類の酒を用意し、料理の品数も多品種揃えました。さらに歌に寄り添って奏でられる楽器をいくつか並べ、食後にも弾んだ話が続けられるよう食後酒やデザートを用意しました(〈戦略〉)。そして最後に、来訪した客をもてなします(〈実行〉)。

〈理念〉から〈実行〉に至る全ての断面で、料理人たるあなたの目線は来客に向いていると同時に、あなた個人の「個性」が随所で生きていると言えます。この2つの勘どころは、こうした活動の根幹をなす要素といえます。活動の最終的な到達点にいる人(この例の場合の「来客」)と、活動を主体的に担う人(この例の「料理人」)です。届ける先にいる相手と、届けようとする人、と言っても良いでしょう。

この届けようとする人(料理人)が、届ける先にいる相手(来客)に向かって、〈理念〉〈意思〉〈戦略〉〈実行〉を流れるように組むときに初めて全体が整合して、一つのメッセージとして相手に届くのです。〈実行〉ばかりが意識されるのではなく、〈理念〉ばかりが頭でっかちに叫ばれるのでもない、相互の連動性を活かし、相互に循環させる活動となるときに、「充実した幸福な時間」という当初思い描かれた成果が達せられると言えます。

企業経営における骨格上の連動性と循環性

「企業経営の骨格構造」は、ここまでお話ししてきたより一般的な人間的活動においても通底する原理を捉えています。最上流において、未実現の非現実を〈理念〉として想像的に構想し、それを現実世界に現前させる〈意思〉が湧き上がります。これは全て当事者の内面において発言する〈信念〉です。

企業/事業においていえば、〈理念〉は事業責任者が抱く理想的状態です。それは完全に夢想された非現実であっても構いませんし、現実世界を基底にして一部分を改変した想像的世界であってもよいものです。そして、その対象には社会全体や人類全体があっても良いですし、より狭い領域の特定の人たちに限定されていても良く、例えば、日本の中だけを見ていても、あるいは一部の地方だけを見ていたとしても全く問題はありません。留意しておきたいことが二つあります。ひとつは、描かれた理想的状態が「到達し得ない」ほど〈遠い〉ほうが良いということです。逆ではありません。〈近く〉にあるものは具体的に想像しやすい反面、想像力に創造性を喚起しづらいものです。理想が現実に近いために、現実の条件に引っ張られてしまうからかもしれません。創造力を解き放つには、描く理想状態が現実から離れていることがひとつの肝です。留意しておきたいもう一つは、描かれた理想状態への〈想いが強い〉ほうが良いということです。想いの強さと具体性は相関します。当事者は自分自身のことはありありと想像することができるはずですから、対象範囲が限定され、人の顔が脳裏に浮かぶほど、具体性が増し、想いが強まる傾向はあると言えます。それだけ想いが強く、具体的になるほど、骨格下流に対する影響力は大きくなると言えます。したがって、より広い対象範囲である人類全体とか全世界を含められれば潜在的に影響力がどこまでも届くかというと、そうもいかないところに気を留めておきたいところです。

同じように、〈意思〉は企業として何を目的とし、どのような存在としてあるかということ、また、誰に対して何を為す事業を行うかということ、そしてそうしたことのどこまでを実行するかということを指します。企業としての存在と事業と目標の選択は〈意思〉です。

ここで、〈理念〉と〈意思〉の距離を考えておくことは有益です。〈理念〉には、そこで描かれる理想的状態を達成するためのどのような方法も(つまり、道も階段も道具も作業員も実行計画も)ありません。ただ、どこからともなく宙に現れた幻想的世界に過ぎません。インスピレーションを与えてくれますが、現実からは遠いのです。しかし、〈意思〉はそれを現実にするためのあらゆる経路を(つまり、道も階段も道具も作業員も実行計画も)作る必要があります。「何をやりたい」という〈意思〉は、必然的にその方法を含みます

その意味で、〈意思〉は、その下流にある〈実践〉としての〈戦略〉と〈実行〉に接続します。〈戦略〉は事業の推進方法を特徴づけるコンセプトであり、また、それを潜在顧客・既存顧客に適切に伝えるストーリーであり、また、コンセプトから派生して数々の施策を一連のストーリーに沿うように配置した束でありその実行を可能とする人材と財源の活用方法であると言えます。〈戦略〉は、〈意思〉において大掛かりに定義された方向性を、より具体的に、なおかつ成果につながるために微細化し再構成し直したものです。

そして、その〈戦略〉を実際に〈実行〉する段が来ます。実行面では、異なる機能の部隊が個別に狙いに合わせて駆動します。

先の芸術・運動・生活の例において議論したように、〈実行〉の結果は事業者にフィードバックを返します。事業者が〈理念〉〈意思〉〈戦略〉において狙いを定めるほど、その「狙い」に対してフィードバックされます。ここで、元々持っていた「狙い」と「フィードバック」との間のバランスを見究めることが、事業者にとって肝となる部分です。「狙い」に固執して「フィードバック」を無視することも、またそれとは逆に、「フィードバック」を尊重して「狙い」を無視することも可能ですが、前者は進化を生まず、後者は迷走を生むきらいがあります。程よい中庸のバランスを見つけて進んでいくことが必要で、それはアート(技芸)になり、法則的な正しい答えをいうことが難しいものになります。そもそもの「狙い」の的確さ次第なのであり、正しさはどこまでも「見えない」ため、軌道修正を通じて「正しそう」に寄せていくしかできないからです。

しかし、重要な点は、サッカーの事例が上で示したように、〈実行〉の結果を、より上流の〈信念〉、理想的には〈理念〉に還すことです。事業者ならば誰でも、絶対的価値を認める自社の商品サービスに自信を持つ反面で、目下の顧客からの反応が芳しくないときに、その自信に疑念を突きつけられる思いをする瞬間というものがあるのではないでしょうか。そこで暗黙裡にやっているのは、ここでいう〈実行〉結果の〈理念〉や〈意思〉へのフィードバックと省察です。

〈理念〉の常在性

事業というものが生き物のように展開していくために、人を駆動させる源泉としての〈理念〉が大事なことは分かりました。最後に、それに付随して大事なことに言及して本稿を終えたいと思います。

それは、〈理念〉に個人も経営者もない、ということです。経営者としての〈理念〉や従業員としての〈理念〉などなく、創業者としての〈理念〉や二代目としての〈理念〉などはないということであり、あるのはただ「個人としての〈理念〉のみ」ということです。

人間活動は〈理念〉から始まって、〈意思〉が来て、そこから〈方法〉に向かいますが、この頂点に位置する理念において、自分は社長だからとか、自分は部長だからとか、いや自分は平社員だからとかいうような、ラベルによって別々の理念に分けることはできないでしょう。同じように、会社を牽引する社長としての理念と、個人としての理念は分離できずに、双方が渾然一体となっているはずです。

〈意思〉まで来れば、個人が家庭の中でやりたいこと、例えば、自宅を家族のかたちに合わせて建てたいというような願望と、会社組織において、この商品・サービスをもっと社会に浸透させたいという希望とは、別々のものとして展開します。しかし、〈理念〉の高みにおいては、個人として生きる上での理想と、組織に生きる人間としての理想とが、別々のものとして存在するほど、理想が都合よく場合分けされることはないものです。

理念とは、いわば「月」です。見上げる月の美しさは、それが手に入らないからこそ憧憬としてあり続けるはずです。逆に、すぐ手に入るような饅頭は、理念とはならないでしょう。

「月」を見上げる時、それが個人であるか、社長であるかということはないはずです。「月」を見るときは、人間として見上げています。もし月に行くことを本気で考えるなら、それはもはや〈意思〉の領域の問題になります。

夜、海洋に出たら、月明かり・星明かりのみが頼りです。自分がどこにいて、どこに向かうかを手助けしてくれるのが〈理念〉としての「月」であり、あるいは「星」です。それを失えば、誰しも遭難します。もし遭難ということがあるなら、事業者としての自分が遭難するときには、個人としての自分もまた遭難していることになります。また等しく、個人としての自分が遭難するなら、事業者としての自分が遭難していることになるのです。

「月」や「星」の代わりに自分の周りを照らし、自分の眼の代わりになる機器(電灯や座標計や衛星通信など)を携える現代においては、どの岸に辿り着くべきなのかについて、むしろ混迷を深めているかもしれません。そうならないためにも、私たちは皆、感性を磨き、「月」や「星」を見つけ、そこに無常の美を見つける美学を持たねばならないでしょう。それには、日本の一千年以上の文学の伝統に立ち還ることが有効ですが、それはまた別の機会にお話しできればと思います。

AVISTALの目線

事業者が自らの〈理念〉を掘り下げて、今まで以上に具体的でありありとした理想郷を構想し、その中の一部分を具現化するための〈意思〉を育てることで〈信念〉を増強するということは、大変に難しく困苦を極める道をいくものです。そうやってなんとか〈信念〉を鍛えたとして、それを〈実践〉するために〈戦略〉のコンセプトを研ぎ澄まし、自社と顧客が成功していくストーリーを紡ぎ上げることは、また別の難しさを秘めています。最後に、〈実行〉において組織の隅々までその思想を展開し、価値を共感してもらい、我がことのように動いてもらうこと、そして、顧客に接して、顧客の語る〈声〉、語られない〈声〉を抽出して、〈戦略〉や〈意思〉や〈理念〉に還すということは、さらに別の難題でしょう。

AVISTALは、こうした原理の随所にある難しさに真摯に向き合い、それでも尚、経営の進化を目指す企業経営者の背中を押すために存在しています。

人間は対照する自己を見出したときに、初めて自分を発見する」、と言います。難しい言い方をすると、自分自身を、あたかも存在する他者のような対象として見出す(対象化する)ときに自分自身の存在をありありと認識することができるということです。これは西洋近代のひとつの到達点であり、それを輸入した日本にとっても基礎を成すものの見方です。それは、つまり鏡に映る自分自身、ということです。私たちAVISTALは、企業経営者の鏡となって、その内面も外面もありありと映し出すことで、今まで知らなかった「自己」を発見することを促したいと考えているのです。

なぜ私たちはそうするのか? それは上述の真理が示すとおり、私たち自身にも、鏡となる対照者が必要だからであり、対照者に対峙することを通じて、私たち自身が、目指す高みに自分たちを高めていけると考えるからです。

私たちの視線の向く先は、「企業経営者のビジネスにおける成功」という狭い視野に留まりません。ビジネスは視野を占める大きな領域ではありながら、その外にあるもっと豊穣な人間性の発展の土壌にこそ、さらなる未来の可能性が眠っていると私たちは信じます。私たちは、そうした意識で、人間性に関わる幅広い視野で研鑽を重ね、お客様となってくださる企業経営者の方々のさらなる発展に貢献しようとしています。

終章:現代に芸術家は絶えたのか?

私たちAVISTALは、事業を推進する責任者たちが、自己ひとりで自らの潜在力を引き出すことの困難を直視し、少しでも多くの潜在力を引き出すお手伝いをしたいと考えています。潜在力とは言葉にしてしまえば月並みですが、実体は個別の業界にいる人が個別の事業を少しずらし、驚きの発想で今までと180度違うことを仕掛け、当初想像もできなかったような成果を上げる無限の可能性を躍動させるということを意味しています。私たちは、そういう形での事業経営者の成功を夢見ているのです。では、それはなぜなのか? なぜそのような他者の成功を願わねばならないのか?

その理由は、現代において、企業や事業における推進者こそが、新しい価値を創造するという意味において最大の芸術家だろうと考えているためです。実は、20世紀も後半になって、あらゆる芸術界でそれまでの時代よりも斬新な作品が出なくなったと言われるようになりました。文学も、音楽も、美術も、演劇や舞踊など、それ以前に新しい様式が生み出され、新しい価値が提案された時代が終わり、新たな創造がなくなったと言われたのです。産業界の方でも、大量生産大量消費を実現させる工業化の時代を経て、汎用的な工業的手法よりもっと複雑で多様なポスト工業化の時代への移行が20世紀後半に先進国で進みました。それまで大規模資本を投入して大規模工場を設立し、安価な労働力を使って余剰利潤をあげるような画一的な生産・供給様式だったものが、事業者ごとの創造性によって、無に近いところから新たな価値を生み出す努力を事業家が行うようになったわけです。この対照的な変化を重ね合わせて見えてくるのが、現代における実業家の「芸術家然とした存在の仕方」です。おそらく、実業界でこのように自己認識する向きは非常に限定的と思われます。しかし、今日、事業家が日夜向き合っている問題は、実は往年の芸術家が取り組んだ問題と同種である可能性があります。社会を見て、その中にいる自己と周囲の人びとを見て、そこに見出される本質的問題に対してそれを乗り越える策を考える、あるいは、そこに存在する人間に眼差しを向ける、という思考様式は、どちらにも共通するように思えます。

芸術とは、人間が誰しも自分の生を生きることに極限まで向き合うところで出てくる、凝縮された〈叫び〉であると言えます。現代では、一人一人の芸術家がそうした〈叫び〉を作品の中に閉じ込めるというよりも、事業家たちが各々の事業を通して、集合的に協働的にその〈叫び〉を社会というキャンバスの上に表現しているように見えるのです。そして、その社会的な動きの一端に私たちAVISTALも加わることによって、この時代を生きる私たち世代の〈叫び〉を表現する「事業」に加担したいと考えるのです。事業家の成功は私たちAVISTALの成功であり、そして私たち世代の成功であるという認識の下で、事業家を後押しすること、彼ら彼女らの潜在力を引き出すことに誠心誠意取り組みたいと考えています。

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