MANAGEMENT STORY 前編

この会社、
ここに留まるような
もんじゃない

成功体験の外側に残された可能性を
探し始めた、ある経営者の記録
前編
01 出会い 02 混沌 03 葛藤 一 04 葛藤 二 05 葛藤 三
CHAPTER 01

出会い

山田は羨望と共に、苛立ちを禁じ得なかった。古くからの友人の藤田が語る会社の好況に、表向きは合わせていたが、丸ごと受け入れられなかった。藤田はこの15年ほど、都内の中堅企業に勤めていた。入社時にはまだベンチャー企業という雰囲気だったその会社は、今ではネットニュースで露出が増えていた。経済記事は、その会社が奇想天外な事業に参入し、潤沢な資金で会社を買収して業容を拡大する様を報じていた。山田はそうした最近の動きを、記事で読んで知っていた。驚いたのは、記事で見知ったこと以上に、藤田の語る当の会社の実態が飛び抜けていたからだった。藤田はその会社で役員を務め、古くからある事業の責任を負いながら、それとは全く無関係な事業領域への進出を画策していた。飛び地への事業進出は会社全体にとって望ましい結果を生みづらい、そういう学説を経営学者が説くのを山田は書籍で読んで知っていたが、藤田は「そういう理屈は、バックミラーで後方の車を見ているようなもんだ」とうそぶいた。その態度は、その会社の破天荒な拡大を背景にして、妙な説得力を持った。山田は、自分の知恵が、現実に起きている一つの反証の前にもろくも反論の余地を失ったことを知った。

しかし、山田には、妙に解せない気持ちが消えずに残り続けていた。30代初め頃に同じ会社で勤めていた藤田は、山田から見れば、石橋を叩いて渡るタイプだった。堅実に仕事をこなし、顧客にじっとしがみついてよく話をする真面目な青年だったが、今自分の目の前で藤田が口にする言葉は、堅実というよりは磊落で、しかし浮ついても誇らしげでもない。一つひとつのアイデアを置くように話す様は往年の藤田らしさを見せるが、その何気ない言葉と言葉の間に、藤田だけが知る苦悩が顔を出すような気がした。それでも、藤田の語る言葉には、人を驚かす力がこもった。なぜか。山田はそのなぜかが分からなかった。冷静に考えれば、藤田が語ることは、自分が自社で経営する際に使う言葉遣いと大きな違いはなかった。自社を見る目、市場を見る目、競合を見る目、業界を見る目、一歩引いて経済や金融や政治を見る目に、自分との違いは特にない。新市場に参入する威勢の良い話はあるが、だからと言って火星にステーションを建てるほど突飛な類の話ではない。山田の違和感が、過去からの非連続な藤田の有り様と語りようにあったことは否めない。しかし、それだけだろうか。その何かが掴めないことが、山田には妙に苛立たしかった。

山田は、なぜそんな飛び地に進出しようとするのかと藤田に訊いた。藤田は、だって面白そうだろ、と言って笑った。山田は、他社のニュースを耳にするとき、呆れて取り合わない場合と、羨望が苛立ちを伴って現れる場合と二つのパターンがあった。大半は前者だが、時折後者が現れる。山田にとって、呆れて取り合わないケースは安心材料だった。「しょうもないことをする」と一笑に付すと同時に、他社の事情は他社の事情だと割り切ることができた。羨望と苛立ちのケースは厄介だった。山田はそこに嫉妬を感じていることを心の奥で知りながら、それに気づかないふりをして自分を偽った。それがネットであれ新聞であれ雑誌であれテレビであれ、ニュースはすぐに通り過ぎる。自分の仕事に取り掛かれば、厄介な感情はすぐに消えた。「どうせ自分はそういう商品やサービスを買うことはない」意識する間もなく、消えていく。

藤田の会社はそういう会社の一つだった。そして、今、藤田は消え去ることなく山田の目の前に留まり続け、山田に全身で羨望と苛立ちを感じさせていた。藤田は、あれこれと会社に特徴的なことをいくつか話していたが、山田はそれをまともに聞いていなかった。山田には、ほとんどのことは瑣末に思えた。ただ、今の自分の会社における現状と、藤田が奇想天外な形で事業を経営している様が、相入れることなく二つの山が聳え立っているように感じられるだけだった。

山田は、数年ぶりに会った藤田との再会から受けた強烈なパンチの衝撃に圧倒されたまま、家路に付いた。

CHAPTER 02

混沌

十時半から始まる予定の会議は、開発・製造部長の田代の急な対応のせいで少し遅れて始まった。食品製造メーカーの社長を務める山田は、マクロ経済の影響を受けて原材料費が高騰する時勢にあって、自社の戦略方針を軌道調整し続ける日々を送っていた。この日は調達部長の西川と販売マーケティング部長の高科に加えて、開発・製造部長の田代とともに、自社の調達・開発・生産・販売マーケティング戦略をすり合わせるつもりでいた。田代は、前日深夜に東日本全域に起こった地震の工場への影響を朝から製造部員総出で点検していた。「問題はありませんでした。通常通りに生産して大丈夫そうです。通常稼働を開始しました。」会議室に到着するなり、田代は言った。

山田は安堵すると共に、自社がこれまで愚直に安定的な生産を続けてきた歴史を思った。地震や雷雨などの自然災害、原材料不良や製品不良、納期の遅れなど、事業が安定から崩れ落ちる危険を日々、組織全体で回避してきた。自分たちの事業が獲得するに至った今日の地位は、奇想天外の発想によってではなく、愚直な安定生産と品質管理があってこそ獲得できたことを、今日のような事案に接する度に思い返す。

〈おれたちは、こうやって仕事をしてきた〉

山田は、長く知る田代が、厳格に工場の状況を確認してきたことをよく知っていた。燃料や原材料の配管や、電気やコンピュータの配線に気を配り、機械の動作に不具合が起きていないことを確かめるのは、こうした事案が起きれば確実に田代がやり切る。そのことを、長年の付き合いから山田は知っている。

〈それが、おれたちの仕事の基礎だ〉

顧客の口に入る製品を売り物とする自分たちが、守らなければいけない事業者としての矜持がここにあると、田代も思い、山田も思い、その場にいる西川も高科も思っていた。山田は、自分たちが食品メーカーとしての社会的な責任を自覚していることを自社の大事な資産であると思っていた。

「しかし、そうも言っていられないでしょう」

と、調達部の西川が呆れたような声を上げた。円安や国際情勢不安の影響で、外国から輸入される原材料や燃料などの価格が高騰しており、戦略方針を見直す議論は立場の違いを露出させて紛糾しがちだった。西川は革新的な姿勢を主張した。情勢はすぐには好転しない。今すぐにでも、会社の商品戦略を組み立て直して、経済環境に合わせて新しい基準とした方がいい、と。

販売マーケティング部の高科は、時勢から言って他社も同様に動くかもしれないが、せっかく顧客の認知が上がり人気が出始めていた商品群をあえてリニューアルして客離れを呼ぶリスクを嫌った。開発・生産部の田代は、燃料コストを低減するのが難しいから、商品戦略を組み直す効果は実質的に薄いと指摘した。

三者三様。それぞれの立場から繰り出される主張は、それぞれに筋が通っているように聞こえる。山田はこれまでにも遭遇してきた予想外の状況に対処する際の方法を、感覚的に身につけていた。その感覚はバランスを重視して、おもりが重くなったほうを中心にある支点に寄せるものだ。至極シンプルな感覚だが、大抵外さない。調達に問題が起きれば、調達にテコ入れし、生産に問題が起きれば、生産にテコ入れする。販売なら販売だし、マーケティングならマーケティングだ。一度に全てが問題となることはない。どこかに比重のバランスが移る。それを見極めて、リバランスする。それが社長としての山田の感覚だった。実際、大抵、それで難を潜り抜けてきた。経験に裏打ちされた感覚の積み重ねは、山田に会社を経営する上での自信を与えていた。

今回のマクロ情勢に端を発した経営環境の変化は、明らかに調達への比重を高めていた。山田の感覚からすれば、調達へのテコ入れを重視して、他の機能部門をそれに従わせるのが王道的対処法だった。

「社長、やはりこういう時は、調達方針に合わせて商品戦略を組み直した方がいいでしょう」

と言う西川は、いずれこの経営会議が自分の信じる方向に進まざるを得ないことを、経験から知っていた。今回ばかりは、自分たち調達部の筋を通させてもらうという意気が言葉にこもった。田代も高科も、半ば諦めの目で山田を見つめた。

しかし、山田は、感覚的に見えている「その答え」を邪魔する何かを感じた。出来心なのかもしれない。冒険心なのかもしれない。あるいは、少し冒険しても、本当に困ったらいつもの法則に従えばすぐに軌道修正できると考える余裕だったのかもしれない。

「この際だから、商品戦略を根底から見直してみようか」

山田はそう言って、会議室のテーブルを囲む面々を見渡した。予想外の言葉に言葉を失う西川の顔を見て、山田は咄嗟に今言ったことを後悔した。西川の顔には、賛同より疑義が滲んでいた。

「根底から、ですか」

西川の目を見れば、山田の意味するところを図りかねている。何もそこまでする必要はない、現今のマクロ経済環境を踏まえれば十分であり、それ以上の「根底」まで遡ることに何の意味があるか、そう語っているように見えた。

田代も渋い顔をしていた。結局、仕事の大半は、開発と生産を担う田代のところに降ってくる。そもそも現在の商品ラインナップを微調整するだけで十分だと思っている田代にとって、根底から商品戦略を見直すことは、自分たちの仕事を一から作り直すのと等しいと受け取っていることは知れた。

販売とマーケティングの高科も、飄々とした表情をしながらも、山田の次の言葉を待っていた。根底から商品戦略を見直す意味は、どこまで既存商品から逸脱するかによって変わる。そもそも根底から見直すと言っても、顧客に訴求する商品価値を、そう大きく変えられるはずもないと考えているのだろう。

山田は、西川の主張していた商品戦略の見直しを中心にした上で、そこにもう一歩「根底から見直す」という追加材料を加えて、一旦の方針にすることにした。幹部三人には戸惑いが残ったが、山田は「一回、自分たちの枠から飛び出したらどうなるか、考えてみよう」と言って、翌週に各自の考えをぶつけ合うことにした。

自室に帰った山田は、窓の外に広がる空と自社の敷地の門から建物へ至るアプローチの道をぼんやりと眺めていた。自分には「根底から見直す」ことの先が見えているわけではない。そうすることが正しいという確信があるわけでもない。たしかだったのは、いつもの「答え」を選べば、予測された状態に至れただろうという目論見だけだった。その選択をすることが、自分の仕事であるとも言えた。だからこそ、なぜ自分があそこで「根底から見直してみよう」と言ったのか、自分でも論理的に言うことは難しいように思えた。山田にとって、それがどこへ至ることになるかは別にしても、自分たちが慣れ親しんだ予定調和の世界から一歩外に出てみた方がいい気がした、いや、正確には、一歩外に出てみたい気がした。自分がそう言い出さなかったら、他の幹部がそう提案することなんてあり得なかっただろう、と自分に言い聞かせて、山田はひとり納得した。

しかし、根底から見直す商品戦略が最終的にどう決着するかは、山田にとって大きな闇のままだった。

CHAPTER 03

葛藤 一

山田は自室に一人の客人を迎えていた。藤田はこの人物を紹介する際に、ただ「自分を偽るな、すべてぶつけろ」と言った。そして、「理屈はいらない、ただ自分を見つめる時間にしろ」と言った。山田は、この人物から本当のところ、具体的に何を期待できるのか分からなかった。しかし、この人物との対話を通して、自分の中でまだ言葉にならない、もやもやとした違和感を乗り越えるきっかけのひとつになればいいと考えていた。

山田は、会社を経営する時間が長くなればなるほど、そうした違和感を他の誰かに相談することができなくなっていた。会社の幹部には違和感を部分的に見せられても、全てを曝け出すわけにはいかなかった。戸惑いと混乱を呼ぶに違いなかった。会社の経営に関して抱く違和感は、その全貌が分からないことが厄介だった。部分を明かしても解決にはならない。丸ごと差し出せば、いたずらに不安と恐怖だけを明るみに出す。しかし、違和感の正体は必ずしも前面に出てこない。

だから、山田は、会社の経営に関することは、自分の中でひとりで試行錯誤し、ひとりで研鑽し続ける他なかった。経営者向けの勉強会やコーチングというものも知っていたが、自分の違和感の核心に招き入れるには遠かった。それより、実地の会社経営の実践を通して、自己流の経営観を築き上げることに忙しく、長い間、違和感は正面切って意識する間もなく、今に至っていた。

直接的なきっかけは、藤田との再会で垣間見た、自分とは違う経営スタイルであることは明らかだった。あれは他人の流儀であり、自分には自分の流儀があるように思えた。にもかかわらず、他人は他人、自分は自分と、簡単に割り切れない。自分の中でうまく整理できない。そこに山田の違和感の正体があり、そこまでは山田自身よくわかっていたが、それより先には進めていなかった。

木村というその人物にいざ会ってみると、木村は、山田が今気になっていることに、徹底的に関心を寄せた。山田はやや警戒しながら、自社の状況を話し、事業環境を話し、自分の今の悩みにならない違和感を話した。木村は、それを静かに聞いていた。ひとしきり話し終わった山田は、木村の反応を待った。木村は、話し出すそぶりを見せず、山田の続きを待っている。山田は、踏み込んで言った。

「自分には、まだやっていない仕事があるのかもしれない、という気もしているんです」

木村の目が光ったように見えた。

「それは、どういったことですか」

「私より先に、この会社があった。私は、この会社がベストになるように自分の経営スタイルを作ってきた。それは、毎年毎年、極められていったと思う。でも、それも行けるところまで来ている感覚がある。これから先をどうするか、そこを見ているんじゃないかという気がする、そういうことです」

木村は静かに頷きながら、「それは、とても自然なことだと思います」と言い、そして、
「ただ⋯⋯」
と言って、山田を見ながら、
「もっと、言いたいことがあるんじゃないですか」
と言った。

〈もっと言いたいこと⋯⋯〉

山田は、自分に言えることは言い尽くしたように思った。これ以上、自分から言えることはないように思った。

「わかりました。それでは、今お話になった思いを片方に置いておきながら、現在の足元の経営についてお話ししましょう。そこに何か問題を見ますか、それとも衝動を見ますか」
と木村が訊いた。

「衝動⋯⋯ですか」

「これをしたいとか、ついこれをやってしまうとか。理屈じゃない、衝動です」

「あるかなぁ」

山田は、自分の経営の手さばきが、理屈に端を発して、今や自然な感覚に至っていることを話した。元々は理屈があった。しかし、体に馴染んでくるにつれて、今や理屈は作動しない。身体が直接反応する。その意味で、山田には、自分の経営に「これをしたい」はないが、「これをやってしまう」があると思った。そして、その起点には、目の前で起こることに問題を見出して、それを解決することがあった。それ以外に、経営スタイルがあるとも思っていなかった。

「それはそれで問題ありません。今は、何を問題だと見ていらっしゃいますか」

それは原材料の、と言いかけて、山田は不意に止まった。そして、流れに身を任せて言った。
「会社が、いや、それ以上に自分がもっと柔軟に動けるんじゃないかということを少し気にしていますね」

木村は山田を見て、「なるほど」と言って深く頷いた。そして、
「どういうところで硬直していると感じますか」
と訊いた。

山田は、どういうところと訊かれると、答えにくいのを感じた。特定のどこかで硬直していると意識しているわけではなかった。

「おそらく、ご自身の中で、解放しきれていない潜在性が残っているように感じていらっしゃるのではないかと思います。そして、私が申し上げられることは、その感覚は正しく山田社長の芯から出ている。同時に、そのチャンスを得られたのは好遇ということです」

「好遇、ですか」

「はい、山田社長も私も、他の誰もが、内なる可能性を持っているはずなのですが、その可能性を開くきっかけを持てずにいるほうが大半です。チャンスがやってきても通り過ぎる、違和感があっても見なかったことにして通り過ぎる、そんなことは日常茶飯事です。しかし、その違和感を無視せずに、手掴みして切り開こうとする人は、すでにチャンスを半分手にしている。よく言われることです。会社経営においても、同じことが言えると思います」

山田はその言葉を黙って聞いていた。自分の経営の可能性、自社の可能性、自分自身が成果を発揮する可能性、そうしたことを常々考えてきた。儲けを作ることはもちろん、自分にしかできない仕事を成し遂げたいと思う気持ちも、人並みにある。他方で、日常業務と生活の繰り返しの中で、可能性ということをことさら意識することは多くはない。

「私から申し上げられるもう一点は、今、山田社長が感じていらっしゃる違和感の正体は、柔軟性に必ずしも留まらない、むしろ、それより遥かに大きな潜在性かもしれないということです。あえて申し上げると、山田社長のご発言には、足元の現業における業務の差配にはあまり困っていらっしゃらないことが伺える。一方で、業務の形に未だなっていない領域に、問題意識をお持ちのご様子です。もし私の見立てが正しいなら、山田社長は、内面にある、何ものかを新たに創り出す衝動に突き動かされている。それは、今のご感覚が失くなる前に掘った方がいい。そう感じます」

山田は、木村が言おうとすることがわかる気がした。自分が何を創り出したいかなどは分からないにしても、そこにうごめく衝動は、足元の業務と直接つながりにくい感覚があった。それを会社の業務の中でやろうとするところに無理があったのかもしれない。しかし、だからと言って、会社の業務とは別に、個人的な違和感を追究することには気が引ける。

「私なら、山田社長の日常的な業務のひとつひとつに簡単な問いかけを投げかけることをお勧めします」

山田は、木村の予期しない一言に、不意に興味を惹かれた。

「簡単な問いかけですか」

「そうなんです。簡単な問いかけです」

木村は、いきなり自分の違和感や内面の衝動を掘り起こすのは難しいと言った。そうではなく、日常の何気ない所作や言動の根っこにあって、通常意識していないことに目を向けるのがいいと言った。そのために、日常的に何かを判断するとき、「その奥に、見えていなかいことはないか」を問う、と。

「お勧めすることは簡単です。ご自身の視界の限界を問うということです」

木村によれば、自分が見えている範囲だけでものを考えているとき、人は不安も懸念も心配も恐れも感じない。見えていないところに、我が身を襲う危険が潜んでいたり、逆に想定外のお宝が眠っていたりするとき、人は危険を感じ、あるいは興奮を感じる。人が違和感を感じ、自らの可能性を予感するとき、見えていないところを見ようとし始める。だとすると、自分に見える範囲を見て考えるだけでは、一向に埒が明かない。だから、見えていないところを見よ、というのだった。

たしかに、それは理に適っていると、山田は思った。異論はなかった。理屈を知ることと、実践して何か見通しを得られることとは別だったが、山田は、しばらく木村の勧めを実践してみることにした。

「そして最後に、ぜひ新しいことに取り組む前に、今やっている事業こそ、その目線で見てみてください」
と、木村は言った。

それを聞いて、山田は息をのんだ。

CHAPTER 04

葛藤 二

「根底から考え直すとしたら、その根底はどこなのか」

口火を切ったのは調達部の西川ではなく、販売マーケティングの高科だった。それは当然そうなる、と山田は思った。自社の中で顧客のことを誰よりも考えているのは高科だ。商品戦略を見直すとなると、最も影響を受けるのは顧客だ。そして、顧客に対峙する販売マーケティング部の高科だ。調達や生産は商品戦略に関わるが、それも顧客がいてこそ成立する。そして、顧客を作るのは販売マーケティング部の高科の仕事だ。その高科の主張は辛辣だった。

「顧客は変わったか、私はそうは思わない。私たち自身は変わったか、私はそうは思わない。顧客が変わらず、私たち自身が変わらないなら、顧客に私たちが提供する価値は変わらない。提供価値が変わらないなら、商品戦略が変わるのはおかしい」

開発・製造部の田代も、調達部の西川も、そして山田もが、高科の取った明確なスタンスに反論の余地を見出せず、圧倒された。

「しかし⋯⋯」と、高科は続けた。「あえて問うなら、本当に顧客は変わっていないか、本当に私たちは変わっていないか。そこかもしれません」

その言葉に、山田は内心、意表を突かれた思いがした。即座に、木村との会話が思い浮かんだ。簡単な問いかけ。既存の事業に⋯⋯。

「私たちは⋯⋯、変わっていないでしょう、ずっと同じことをやってる」と言って、田代が笑った。「それが取り柄みたいなところがある」
「状況に合わせて、やり方は変えていますがね」と、西川も含み笑いをしながら譲歩した。

山田は、真剣な面持ちで、テーブルを挟んだ反対側に座る三人に問いかけた。
「もし、顧客が変わってきたのに、自分たちだけが変わっていなかったとしたらどうする」

田代と西川の顔から緩みが消えた。
高科を見た。覚悟を決めた面持ちの高科が、一瞬うろたえた。

山田は、問いを発した自分自身のその言葉に、誰より驚いていた。
〈もしかしたら、見ているつもりで、顧客の変化を見ようとしていなかったのか⋯⋯〉

愕然とした。死角を、死角と思って、疑うことさえしていなかった。見えている範囲で、勝手知った考え方で経営を管理してさえいれば、会社を経営できていると考えていた。しかし、そんな自分にも、死角はたしかにあった。それは、誰も教えてくれるものではない。ただ、自分の目に入らないだけで、時間は静かに過ぎていく。そして、自社と顧客とが、静かに、少しずつずれていく⋯⋯。

山田は常日頃、自分の能力の限界が、会社の限界を規定することをよく感じていた。その自分の能力の限界を、信頼する経営幹部がよく補完してくれている。しかし、彼らの能力の限界もまた、会社の限界を規定する。会社の方針を決めている自分たちに見えていないことは、会社経営に活かせない。山田は、その限界を今、如実に実感した。

CHAPTER 05

葛藤 三

「商品戦略を見直さなくても、業績が好転する可能性があります」

二度目に会った木村は、これまでのいきさつを聞いて、そう言った。
「もっとも、結果的に、商品戦略が改まる可能性はあります。ただし、最初から商品戦略を見直すのではなく、もっと重要な部分を見直すことで、結果的に商品戦略が改まるという意味です」

山田は、目を丸くして木村の続きを待った。

「前回、山田社長は、自社が今以上に柔軟に動けるのではないか、それによって未だ開花していない可能性を現実にできるのではないかと示唆された。その時は、既存事業とは違う『飛び地』を意図するように聞こえました。しかし、今伺っている話はむしろ既存事業に向いている。それは正しい方向です。いつであっても、今取り組んでいることの中に、次の一手のヒントがあります」
「それで、もっと重要な部分というのは⋯⋯」
「それは山田社長が経営する中で、一番気になっている部分です」

山田は、即座に頭の中でそれを探した。そして、それは顧客だと考えた。自分たちの顧客は、自分たちの商品をどう受け入れてくれているのか、他の商品がたくさんある中で、どうして自社の商品を買ってくれているのか、もっと望んでいることはないのか。そうしたことについての自分たちなりのイメージは果たして正しいのか、そこが今最も気になっていた。

木村との会話を深めていく中で、販売マーケティング部の高科を対話に呼ぶことにした。高科は、顧客の一挙一動を掴んでいる。山田以上に、顧客の機微を理解している。

呼び出した高科は、警戒した面持ちで会話に加わった。ある意味では、高科が自身の業務を通じて掴むに至った顧客についての認識を、この場でテストしていると言っても過言でなかった。しかし、山田の関心は、高科を見定めることではない。顧客をよりよく理解しにいくために何をできるかにあった。高科は、社内に持っている顧客のデータを分析した結果を開示して、自社から顧客がどう見えているかを山田と木村に説明した。それを聞いて、木村が高科に訊いた。

「今、見えていることは大体わかりました。見えていないところに、どういう可能性がありそうですか」

高科は戸惑った。高科自身、データで見えることから顧客像を具象化してきた。それを自分たちの見る顧客像として、経営の他の機能に示唆を手渡してきた。その外側は、自分たちには見えないブラックホールであり、見ることができないものだと考えてきた。そこを問われても、高科には応えようがないように思えた。

「⋯⋯そういうことか」

山田が言った。山田は、今のやりとりをそばで見ていて、自分の経営に欠けていることが、半ばぼんやりと見えた気がした。

「おれたちは、データを得たところで止まっていたんだ」
山田は力を込めてそう口にし、木村を見た。木村は何も言わずに微笑み返した。高科はまだ、山田が言わんとすることを飲み込めずにいた。

TO BE CONTINUED

本当に守るべき
ものは何なのか

山田はまだ知らない。
この先50年を見据えたとき、
自分にしかできない挑戦があることを。

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